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※アスカガ・オリキャラ視点・戦後IF
『サマータイム』
08.
浴室を出ると、大きなおばさんがデキャンタに入った氷水をくれた。よく冷えておいしい水だ。
ソファに座って、水を飲みながら休んでいると、おばさんが言った。
「姫様のお小さい頃の服がぴったりですわね。坊ちゃまがその服を着ておられると、なんだか懐かしいような気が致します」
「ああ、なんか見たことがあると思ってたら、私の服だったのか。よく取っておいてあったな」
「姫様は、すぐに服を駄目にしてしまいましたからね。せっかく仕立てたお洋服も、穴だらけ泥だらけにしてしまわれて……残っているのは、そのような頑丈な既製服ばかりですわ」
僕は心の中で、ほっと息を吐いた。これは、この女性の服だったのか。良かった。『彼』のものでなくて、本当に良かった。
「ばあやの小言は聞き飽きたよ。なあ、アサヒ」
「え?」
「姫様!」
「アサヒ。あっちで、髪を乾かそう」
手を引かれて、扉続きになっている部屋へと移動する。
いいのかな、と思って振り返ると、おばさんはやれやれといった表情をしていて、振り返った僕に向かって苦笑いを返した。
「ここに座って」
鏡台の前に座らされて、ドライヤーの熱風を当てられた。
時々、髪ではなく顔に熱風が直撃して、熱い。思わず顔を顰めてしまう僕に対して、彼女は楽しそうだ。
髪が乾いてくると、直毛だった僕の髪に癖が出て、毛先が丸くなってしまう。彼女は、細い指をふわふわと揺れる柔らかい髪に絡ませて、旋毛にそっと唇を寄せた。
時間が止まったかのような、あまりにも優しい時間。伏せた瞼から琥珀の瞳が覗き、榛の瞳を鏡しに見つめてくる。
その絶対的な愛情を確信させる瞳を見た時、僕はぎゅっと心臓を掴まれた様な痛みに苛まれた。そして、少し俯きがちになって、涙を散らすようにしぱしぱと瞬いた。
僕には母親がいない。けれど、それを卑屈に思ったことはない。受け入れなければならない現実に、拗けがましい言動を取ることは、幼いとはいえ、僕の自尊心が許さなかった。
だが、母親を知らないことで、母性というものへの憧憬は人一倍強かった。
母がいたら、名を呼び、微笑みかけ、頭を撫で、抱きしめ、キスをして貰う。そう願っていたことが、今日図らずも全て叶ってしまった。そう、この誘拐犯の女性によって。
恐らく、彼女には僕と同じ年頃の息子がいたはずだ。もうこの世にいないのか、あるいは、何らかの事情によって逢えないのか。いずれにせよ、僕を息子の代わりに攫って、おやつを食べさせたり、お風呂に入れたりしたのではないのだろうか。
あの絶対的な安心感を約束する笑みを向けられた時、僕は誘拐された理由に気が付いたのだ。
幼い僕は、信頼出来る大人かどうかを、この顔で見極めていた。
これは、自分の子供――より正確に言うのであれば、絶対的に庇護する対象を持ったことがある人だけにしか出来ない顔だ。自分に責任が発生しない立場で、子供を可愛がろうとしている人間には、到底この顔を作ることは不可能なのだ。
僕の父は、女性に人気があった。それ故に、父の気を惹こうと近付いて来る人もいたが、みんな子育ての旨味だけを貪ろうとしていて、自分の方が大事なようだった。彼女達は、僕をカワイイと褒めたけれど、その実、カワイイのは『子供を可愛がる自分』だと思っていたのだろう。
中には、父が目当てではない人もいたけれど、結局、僕は彼女達のマスコットでしかなかった。
友達のお母さんを見ていれば、その違いは明瞭だった。若い未婚の女性に、それを求める方が酷なのだろうが、幼い僕は母性というものを実情以上に神格化していたのだから仕方がない。
僕は子供だったから、目に見える愛情を食べなければ、生きてはいけなかった。僕の父は、そういう愛情をちゃんと食べさせてくれる人ではあったけど、他所の家庭を見てしまった時には、その家庭が羨ましくなり、見たこともない母親を思い浮かべていたのだった。
「どうした?」
僕が泣いているのに気が付いた彼女が、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
欲しいものによく似たものを得ても、それが本物でないと知っている以上、ますます孤独が募っていく。
お母さんには、僕だけのお母さんでいて欲しかった。きっと、彼女の息子も、そう思っているはずだ。
「しんだおかあさんにあいたい……」
母に逢いたいと言ったのは、後にも先にも、この時だけだ。
「でも、あえないから、おとうさんにあいたい」
我慢できなくなった涙が一粒、頬を伝っていく。
金色の女性は、はっと息を飲んだ。そして、何かを言いかけたが、辛そうな顔をして口を閉じた。
涙が止まると、僕は眠たくなってきた。今日は色んなことがあったから、疲れていたのだろう。
うとうとし始めると、彼女は僕を抱き上げて、ベッドに運んでくれた。
「……ごめんな」
夢うつつに彼女が謝ったような気がしたが、それを確かめる間もなく、僕の意識は沈んでいった。
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