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※アスカガ・戦後
『対流』
遠くの方で、ドアの閉まる音が聞こえた。
この目で確かめたわけではないが、閉まったということは、オートロックが掛かったということだろう。アスランの目は、獰猛な獣が獲物を狙い澄ます時のように、カガリの赤い唇だけを捉えていた。
ぬるり、と合わせた唇が滑る。
彼は、唇がべたつく不快感に、思わず眉を寄せた。
それは、いつもであれば味わうことのない感覚だった。アスランの良く知る唇は、健康的な珊瑚の色をしたさらりとした唇である。
先程、その唇は、許しがたい媚態を含んでいるように、他の男に向かって微笑み掛けていたのだ。脳裏に浮かんだ蠱惑的な赤が、アスランを猛らせる。
苛立ち、赤を乱す。
貪った唇の隙間から、湿った息が漏れ、アスランの口を湿らせた。悪寒にも似た震えが沸き立つ。暖められた水や空気が上昇するように、肌の奥から熱が浮かび上がってくる。じん、と腹の下の方に熱が走り、腰が揺れそうになる。だが、そこを腹に力を込めてぐっと堪え、この爛れた口づけを終えることにした。
「口紅、縒れてる……」
アスランがぽつりと呟き、指で優しく唇の淵をなぞると、カガリは蒸気した頬をさらに赤らめ、いきり立った。
「――っ誰のせいだよ!」
カガリは、不躾に唇を合わせてきたアスランに不満を述べると、身なりを整えるためにドレッサーのある部屋へと入っていった。
手持ち無沙汰に彼女の支度が整うのを待っていると、ふと、だらしなく口元を汚した男の姿が目に入った。窓ガラスに映った己の姿であった。
豆が潰れて硬くなった指の腹で、その汚れを拭った。唇を撫ぜると、先程の接吻の感触が蘇った。いやらしく反芻する思考を払うように、拳で強く擦った。
ガラスには、コーディネーター然とした秀麗な男の顔が映っている。擦ったために、少し唇が赤くなっているかもしれなかったが、窓ガラスでははっきりと分からなかった。
と、そこで窓ガラスに、数字の反転した置時計が移っていることに気がついた。振り返って、もう一度数字を読み返す。
そろそろ、バンケット会場に戻らなくてはならない。時間が気になる頃合だった。
協議の後に開かれる晩餐会など、金と時間の無駄だと思うが、これも大事な外交の場であることは、嫌というほど承知している。
汚れたドレスを着替えるために、控え室に戻るカガリをエスコートしてきたのだが、あまり時間が経ち過ぎるのはまずい。二人して消えたことで、いらぬ詮索を招くかもしれない。
尤も、そのドレスを汚したのは、アスランだったのだが。
今日のカガリは、金糸で刺繍を施した濃い緑のドレスを着ていた。胸元と背中が大きく開き、胸のちょうど谷間の辺りが金色のレース飾りがアクセントになっているものだ。
カガリは気がついていなかったようだが、歓談相手の男は、そのレース飾りの辺りにねっとりと纏わりつくような視線を向けていた。
本人は、気がついていないのだから仕方がない。ましてや、相手の男は、他国の要人である。
だが、艶然と笑みを作っていた彼女の赤い唇が、アスランを苛立たせた。
二人の死角からそっと近付き、事故を装って、わざとカガリのドレスにワインを零してやった。緋色の液体は、緑の布地に吸い込まれ、黒い染みを作った。
予備のドレスのある控え室へと戻るカガリの警護を申し出、ここまで付いて来たのだが、部屋に入った途端、カガリの二の腕と顎を掴んで、乱暴に唇をぶつけてやった。
滅茶苦茶にしてやりたい――ただただ、その激情に駆られて。
「カガリ?」
ドアをノックして、カガリを急かせる。
彼女も、時間が気になっているようだった。重い木戸が開き、姿を現した途端に、早口で捲し立てた。
「ごめん。ボタン留めてくれるか?」
今度の衣装は、紺のタートルネックのドレスだった。アクセサリーも、先程の大振りなゴールドのものではなく、洗練されたプラチナとダイアモンドのものに変わっている。
アスランは、胸元が隠れていることに安堵したが、刳り貫かれたように大きく開いた背中を見て、こっそりと嘆息した。
問題のボタンは、首の後ろにあった。縦に二つ並んだくるみボタンを、留めてやる。
「ありがと」
そう言って微笑んだカガリの形良い唇を、乱したはずの赤色が、元通りに形取っていた。
結局、アスランが乱すことができたのは、その赤色だけだ。
無意識に、結い上げた髪に、指を潜らせようとはしなかった。髪をほどけば、会場に戻ることが出来なくなっていたはずだ。
それは、意識してやろうとしたことではなかった。
理性によって、唇を侵すことは止められなかったのに、意識せずとも、髪を乱すことは抑えることができた。
――浮き上がった熱の下には、冷え切った理性が流れており、いつでも境界線を弁えている。
熱に溺れる事すらできない自分が、少し悲しくなった。
【あとがき】
大分前に書きかけていて、やっと完成したものです。……良かった、書きあがって。
設定的な部分をばっさり切ってしまったので、空白の二年間でもいけるかもしれません。お好きな方で、お楽しみいただければと思います。